生きていると思われるものは、局所的には秩序を生みだしながら、全体としては、エントロピーを増大させている。
局所的な秩序を維持する意思がなくなった時、または、局所的な秩序を維持するためのインプットがなくなった時、死が始まる。
このように定義することで死の概念を拡張できる。
人間関係も維持する意思がなくなった時に関係の死が始まる
廃墟に死を感じるのも維持する意思を感じられず、エントロピーが増大する方向にしか進まないことが直感できるからだ。
機械に一種の生き物的な感じをうけるのも秩序ある仕組みが維持されているからである。
機械も人間にメンテナンスする意思がなくなれば、その時点で死が始まる。
自分の持ち物がある日突然不要なものに思えるのも一種の死であろう。
死は、
秩序を維持する意思がなくなった時に始まる。
秩序を維持する意思があったとしても秩序を維持するためのエネルギーが外部の系から十分に供給されない時にもおこる。
局所的な秩序が不可逆的に壊れた時、死の一つの区切りがつく。これを今までの概念で死と呼んでいる。
死は、時間の一点ではなく、時間の幅を持つ。
秩序を維持する意思がある限り、死は訪れない。
死に時間的な幅を持たせることで脳死や心臓死の判定も変わってくる。
部分的な死、すなわち部分的な秩序の不可逆的崩壊を想定する必要がある。
腕や足を切断しても人は生きていると思うだろう。それは、秩序を維持する意思が続いているからである。
生命の場合、特に人間の場合、秩序を維持する意思を持っているかどうか、体の他部分の秩序が維持できるかどうかで死を判定する必要があるだろう。
心臓が止まったとしても、人工心臓で他の部分の機能が維持できるのであれば、生きているのである。
秩序(循環するシステム)が構築されているところに生命を感じる。