佐賀県唐津市北波多山彦にある座主磨崖仏に訪れた。唐津市相知にある鵜殿石仏群に比較的近い
いくつかの石には「文化」(1804-1818)「文政」(1818-1831)の年号が刻まれており、江戸時代のものと確認できる。しかし、磨崖仏には直接年号が彫ってあるものはなく、また、年号が刻まれている石と比較して風化が激しいため、それ以前のものとも考えられる。
石仏と梵字(種字)で書かれたものがある。また岩肌に建物の屋根をつけるために削ったと思われる跡と建物の木材を差し込んだと思われる穴が開いている。昔はこの前に建物があったと思われる。
種字が書かれているところは、通りから入ったところの一段上の左側にあり、わかりにくい。
座主磨崖仏の入口にある説明が書かれた看板には、左から「阿弥陀如来」「地蔵菩薩」「勢至菩薩」「阿弥陀如来」「観音菩薩」「滅悪趣」と書かれているが、文字は、全部で8文字あるように見える。
右から4文字目の阿弥陀如来(キリーク)を中心として、左の「勢至菩薩(サク)」と右の「観世音菩薩(サ)」が確定しやすいのでそこを中心に考えると左から「観世音菩薩(サ)」「阿弥陀如来(キリーク)」「地蔵菩薩(イ)」「勢至菩薩(サク)」「阿弥陀如来(キリーク)」「観世音菩薩(サ)」「文殊菩薩(マン)」「釈迦如来(バク)」のように見える。左から二文字目のキリークは、文字が大きく、蓮華座も描かれている。左の3文字と右側5文字には、空白部分があることから、「阿弥陀如来」を中心として「観世音菩薩」と「地蔵菩薩」を脇侍として配置されているのではないだろうか。そう考えると右側5文字のうち左側3文字の「勢至菩薩(サク)」「阿弥陀如来(キリーク)」「観世音菩薩(サ)」も阿弥陀三尊を表している可能性もある。ただし、このように考えた場合でも残りの右側2文字の解釈が確定できない。さらに、入口の説明にある「滅悪趣」は、解釈ができない。自分が現地で見た限り、「文殊菩薩(マン)」のように見える。ここの文字が写っている画像はネット上でも少なく、グーグルマップのところに自分が投稿した以外に2枚あるのみである。右4文字は草がなく鮮明に映っている画像(リンク)がある。
2021/02/25追記
「北波多村史 下巻」(P284)に入口にある説明看板の根拠となっていると思われる写真と説明があった。写真には左右の文字を除く6文字しか写っておらず、その6文字が説明されている。この説明をそのまま看板にしたと思われる。蓮華座など今は摩滅している部分も写真には比較的はっきり写っている。しかし、滅悪趣の部分だけは影になり不鮮明である。書籍の説明には「滅悪趣(ドバーン)」と書かれている。ここにこだわる理由は、単に他がメジャーな種字であるのに対して、マイナーな「滅悪趣」が選ばれている理由が分かれば、全体の意味の取り方に変化がある可能性があるからである。
また、入り口付近に六地蔵の塔があったようだ。確かにその部分に台座と思われる礎石があった。
種字をスタートとした場合、その先に下記の仏像がある。
下記のように他にも種字だけのものや仏像とともに種字が彫られているものがある。こちらの文字と比較すると前出の種字は、文殊菩薩の可能性の方が高いかもしれない。
字「山彦」について
現在、地図上では座主摩崖仏と記載されているが、入口の説明の看板には、山彦崖石仏群とある。北波多村誌によると「山彦」の地名は、「やまびこ」と関連するのではないかと書かれています。確かにこれだけの大きな岩があれば、このあたりだけやまびこが聞こえたのではないかと思います。やまびこが音の跳ね返りだと知らない時代であれば、その当時の人々が、このあたりだけ話し声がコダマすることに神的な何かを感じ、祀り始めた可能性はありそうです。
字:山彦 小字:座主
先の北波多村誌によると字:竹有を含めた近隣には、他に寺屋敷、御手水、寺の池などの小字があり、寺院があったと考えられるが、現在はどこにあったのか、いつ廃寺になったのか記録は全くないとのことです。